項目
朝廷
Imperial Court of Japan
朝廷(ちょうてい)とは、日本にかつて存在した政権および政府である。大宝元年(701年)の大宝律令施行までには政治体制が成立し、慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令により廃止された。
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Imperial Court of Japan
朝廷(ちょうてい)とは、日本にかつて存在した政権および政府である。大宝元年(701年)の大宝律令施行までには政治体制が成立し、慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令により廃止された。
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朝廷(ちょうてい)とは、日本にかつて存在した政権および政府である。大宝元年(701年)の大宝律令施行までには政治体制が成立し、慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令により廃止された。
日本において「朝廷」という言葉が見えるのは、『古事記』の開化天皇紀に穂別君の祖として「次朝廷別王」と記されたのが現存文献で確認できる初出で、『日本書紀』では崇神天皇紀《崇神天皇60年(38年)七月己酉条》「聞神宝献于朝廷」まで遡って記され、また、「朝庭」が当てられたものでは、景行天皇紀《景行天皇51年(121年)八月壬子条》「則進上於朝庭」がある。
『日本書紀』用明天皇紀《用明天皇元年(586年)五月条》に「不荒朝庭」とあるのは実在する場所を推測させる具体的な記述であるが、推古天皇紀で「朝庭」または「庭」として度々言及され、十七条憲法の官吏の出退について説かれた8条に「群卿百寮、早朝晏退」(官吏は早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け)とあって政務を執る場所として明確な推古天皇の小墾田宮が発掘調査から実在が裏付けられた最古の「朝庭」である。
中国では「朝廷」と「朝庭」は同義に用いられ、記紀でも混用されているが、中国での字義に広場の意味はないにもかかわらず、日本史学では後に「朝堂院」と総称される政務・儀式を執り行う建物群に囲まれた広場を指して特に「朝庭」と区別して用いる。
『日本書紀』推古天皇紀《推古天皇16年八月壬子条》「召唐客於朝庭」と記された、隋使裴世清が天皇に来朝の挨拶をしたとされる小墾田宮の「朝庭」を指して、吉村武彦は、「朝庭は、普通は『朝廷』の字を使うが、ここはのちの朝堂院にあたるスペースの中央広場であるから、『朝庭』の方が的確である」と述べている。また、熊谷公男は、「左右対称の整然とした配置をとった『朝庭』を付設した宮は、小墾田宮がはじめてであった可能性が高い」としている。
朝堂院は朝政と朝儀が執り行われた朝廷の正庁であり、小墾田宮の「朝庭」は住まいである「宮」から分離して朝堂院の原型が姿を見せており、「朝堂」を置いて政務を執る「朝堂政治」が開始されたのを推古天皇治下とするが、その規模が確認されたものでは、条坊制により日本史上最初に建設された都城とされる藤原京(藤原宮)の朝堂院が最古である。
朝堂院はその後平城京、難波京、長岡京、平安京と都が移っても建設され続けた。平安時代、876年(貞観18年)、1058年(康平元年)に焼失し、そのたびに再建されたが1177年(安元3年)の安元の大火ののちは再建されなかった。
内裏の焼失により里内裏が現れるようになって後、天皇が政務を執る場所は朝堂院の有無にかかわらず天皇の私的な住まいであった内裏に移り、朝儀は主に内裏の紫宸殿でおこなわれることとなった。
また、退位した天皇(上皇)が「天皇家の当主」である資格をもって政務を行う院政も朝堂院外で行われたが、これも朝廷に含められる。
なお、中国の場合とは異なり、日本では、天皇の私的な住まいである内裏の七殿五舎(後宮)には宦官が置かれず、もっぱら女官によって秩序が維持された。
武家政権が樹立される以前と以後で朝廷の性格が大きく異なり、武家政権が樹立される以前は政権として機能し、武家政権が樹立された以後は武家政権の権威を保障する立場となった。
奈良時代以前の古墳時代から飛鳥時代にかけての畿内政権は、主に飛鳥近辺の大和地方に宮を置いていたので「大和時代の朝廷」という意味合いで「大和朝廷」と呼称されてきた。しかし、大和地方は古墳時代当時は「倭」もしくは「大倭」と表記され「大和」の表記が後のものであることと、1970年以降、古墳時代の政治組織にかかわる研究の進展から、朝廷の語源である「君主制下で官僚組織をともなった政府および政権」というよりも、古墳時代に関しては「ヤマト政権」または「ヤマト王権」と呼ばれることが多くなっており、「大和朝廷」の表記は少なくなっている。
このことについて、関和彦は、「朝廷」は「天皇の政治の場」であり、4世紀・5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し、鬼頭清明もまた、一般向けの書物のなかで、磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、武烈朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として「大和朝廷」の語は継体天皇以後に限って用いるべきと説明している。
また中国側の史書である『隋書』600年条の記述では、日本が夜に政治(まつりごと)を行っていることを説明し、中国皇帝が合理的でないとし、改めるように指示したことが述べられており、中国と国交を結ぶ必要性と律令制導入のため、日本側も中国式である「朝に政治を行うスタイル」に変化している。内容としては、日本側は、日本には独自の思想と文化があると主張したが、中国側はこれを否定したため、以後、中国文化に合わせたことになる。つまり古墳時代の日本は、朝廷=朝に政治をする体制ではなかった。
645年に中臣鎌足と中大兄皇子が起こした乙巳の変により、蘇我氏が倒されたことに始まり、646年には改新の詔が出され、大化の改新が行われた。それにより皇極天皇は退位し、中大兄皇子ではなく孝徳天皇が即位した。中大兄皇子は皇太子として政務をとった。
667年に近江大津宮へ遷都し、668年には中大兄皇子が天智天皇に即位した。
672年に天智天皇が崩御すると、同年には大海人皇子が弘文天皇に対して挙兵し、壬申の乱が勃発する。この戦いに大海人皇子が勝利し、天武天皇が即位する。また、近江大津宮から飛鳥へ戻した。そして、皇族が要職を占め、大臣が一人もいなかったため、皇親政治と呼ばれる。
679年に天武天皇が皇位継承に争いが生じないように吉野の盟約が結ばれる。
701年、唐の律令を参考に大宝律令が施行される。また、757年には養老律令も施行され、朝廷の政治制度が確立されることになる。
781年に光仁天皇が譲位したことにより、桓武天皇が即位する。そして784年に平城京から長岡京へ遷都するが、天災が相次いだため、794年に平安京へ遷都する。また、蝦夷を服属させるために3度に渡り蝦夷征討を行った。しかし、805年には徳政相論が起き、藤原緒嗣の進言を受け容れ、蝦夷征討と平安京の造作を中断した。
887年に臣籍降下していた源定省は光孝天皇が重態に陥ったことにより、親王宣下を受け立太子したが、そのまま崩御したため、宇多天皇が即位した。
宇多天皇は藤原基経を関白に任じる詔勅を発するが基経は一度断る。その後阿衡に任じる詔勅を発するが、基経は実権のない役職として抗議し、一切の政務を放棄し、阿衡事件が起きる。そして宇多天皇は詔勅を取り消し、橘広相を罷免した。891年に基経が死ぬと宇多天皇は基経の嫡子である藤原時平を参議に任じるが、それ以外にも源氏である源能有や菅原道真など藤原北家嫡流から離れた人を多く抜擢し、律令制への回帰を図った。この治世は寛平の治と呼ばれる。
897年に宇多天皇が譲位したことにより、醍醐天皇が即位する。
醍醐天皇は時平と道真に左右大臣に任じて政務を任せるが、901年に時平の讒言を受け入れたことにより、昌泰の変が発生し、道真を左遷した。しかし、時平および醍醐天皇は律令制への回帰を先代同様に図るが成功せず、律令制復活の最後の試みとなった。また、文化面では勅撰和歌集である古今和歌集を編纂した。この治世を延喜の治と呼ばれる。
935年に承平天慶の乱が勃発し、朝廷は征伐軍を送り鎮圧した。しかし、律令制の衰退が明白となる。
944年に朱雀天皇が譲位したことにより、村上天皇が即位する。
承平天慶の乱の影響で朝廷の財政が逼迫していたため、倹約に務めた。また、後撰和歌集を編纂し、歌人や琴、琵琶の楽器にも精通した。この治世を天暦の治と呼ばれる。
また、延善の治と天暦の治を併せて延喜・天暦の治と呼ばれ、後世にも善政として理想の時代とされた。しかし、それは中下流の文人貴族層の過大評価であった。また、これらは摂政・関白を置かなかったといえど、藤原氏に支えられていた側面が大きかった。
842年に藤原良房が承和の変によって道康親王を文徳天皇に即位させた事により、天皇の外戚になり、857年に太政大臣に就任した。また、866年には応天門の変により、伴氏と紀氏を失脚させると、人臣初の摂政に就任し、権威を確立した。
しかし、この時点では摂政および関白は常設の役職ではなかったが、藤原長者が政権を握った。
884年に基経が陽成天皇を退位させ、光孝天皇を即位させた。天皇はまだ太政大臣である基経に大政を委任する勅書を発して事実上の関白とした。また、887年に即位した宇多天皇が基経を阿衡に任じる詔勅を発した。これにより阿衡事件が起きる。そして、宇多天皇が詔勅を撤回したことにより、藤原氏の権力が天皇より強いことを改めて世に知らしめることになる。
969年に安和の変により源氏を失脚させると、藤原氏の内部で争いが起こるようになる。特に、藤原兼通と藤原兼家とで争いが激化する。
また、986年に寛和の変が発生し、花山天皇は退位、出家した上、兼家の孫である一条天皇が即位する。そして、兼家は摂政に就任した上に、慣例を破って右大臣を辞任した。これにより摂関専任の先例となる。
それ以降藤原氏が摂政および関白に就き権勢を誇り、藤原道長と藤原頼通の時期に最盛期を迎えた。
1086年に白河天皇が堀河天皇に譲位し、院庁を設置し治天の君として統治した。しかし、始めは弟への皇位継承をなくし、自身の子への皇位継承を目的としていた。
1141年には鳥羽上皇は崇徳天皇を退位させ、近衛天皇を即位させた。しかし、1155年に近衛天皇が崩御すると後白河天皇が即位するが、崇徳天皇と後白河天皇との間で対立が生じる。そして、鳥羽法皇も崩御すると、1156年に皇位継承を巡る争いと摂関家内の争いにより保元の乱が発生し、後白河天皇が勝利した。また、同年に保元新制が出された。
しかし、1160年には院近臣らの争いにより平治の乱が発生するなど、あまり安定しなかった。また、1179年に平清盛と対立したことにより、治承三年の政変が発生する。これにより、後白河上皇は鳥羽殿に幽閉され、院政が停止してしまう。ただし、福原遷都後平安京に戻った高倉上皇が崩御し、清盛も没すると平宗盛により院政が復活する。
治天の君は三種の神器が無い時に院旨を出すことにより譲位および親王の即位に正当性を持たせた。
また、摂関政治は衰えたが、摂政と関白自体は薬子の変によって、退位した上皇が内裏に入らない原則が生まれた為、治天の君が自らの意思を内裏に伝えるには摂政・関白を自らの代理にして伝える必要があった。そのため摂政・関白は摂関家として存続した。
1167年に出された仁安二年五月宣旨により平重盛に東山・東海・山陽・南海諸道の治安警察権を委ねた事に始まり、1179年に起きた治承三年の政変により後白河上皇の院政を停止させると、日本初の武家政権である平氏政権が成立した。また、清盛は武家で初の太政大臣に就任した。ただ、平氏政権は朝廷の官職に平氏が独占するというもので貴族的な性格も持ち合わせていたが、後白河法皇との対立により、高倉天皇は安徳天皇に譲位し、清盛による傀儡院政が開始されることになった。
1183年に治承・寿永の乱により源義仲が上洛していたが、乱暴を繰り返したことにより、後白河法皇は義仲に代わり源頼朝に上洛を求めた。頼朝は東海・東山・北陸の諸道の支配権を国司に戻す寿永二年十月宣旨を要求し、後白河法皇は北陸道以外を受け入れた。これにより間接的に支配権が頼朝に移ることになった。
1185年に壇ノ浦の戦いで平氏が滅ぼされるが、この時に安徳天皇と三種の神器の内、形代の草薙剣が壇ノ浦に沈んだ。また、源義経と源行家が頼朝に無断で官位を得た事により頼朝は後白河法皇より両者追討の院宣を獲得すると共に、両者追補の為に守護・地頭の任免権を頼朝に承認することとなった。これにより鎌倉幕府が成立する。ただし、この時点では朝廷の支配権を侵害するものではなかった。また、1192年、頼朝は征夷大将軍に就任した。そして1218年には源実朝が武家で初の右大臣に就任した。
1221年までには北条義時が幕府の権力を掌握していた。そのため、朝廷と幕府の間に対立が生じていた。そして同年、後鳥羽上皇が義時追討の院宣を発し、承久の乱が発生した。当初は優勢だったものの、次第に劣勢になり、遂には敗れた。これにより朝廷の権力は幕府により制限され、六波羅探題によって監視を受け、そして皇位継承にも影響力を及ぼされるようになった。
そして、後堀河天皇が乱後に即位すると、行助入道親王が後高倉院として異例の院政を行った。
1252年には宗尊親王が皇族から幕府の将軍に迎えられるが実権は無かった。
1300年代には後醍醐天皇が倒幕を画策するが正中の変、元弘の乱により露見してしまう。その影響で後醍醐天皇が退位することになり、同時に隠岐に配流されることになる。しかし、その裏で倒幕運動も盛んになった。そして、1333年には後醍醐天皇が配流先から脱出し、六波羅探題を滅ぼして鎌倉に新田義貞率いる官軍が進軍、鎌倉の戦いにより遂に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇は復位した。これにより朝廷は復権を果たした。
しかし、新政は新設された機関の権限の衝突、北条残党による反乱の多発により混乱を極めた。
1335年には北条残党である北条時行により中先代の乱が発生すると一時鎌倉を占領されるが、これに足利尊氏は時行追討と総追補使、征夷大将軍の役職を要請する。しかし、後醍醐天皇はこれを拒否した。そして、尊氏は勅許も得ずに出陣、後醍醐天皇は追って征東将軍の号を与えた。尊氏は時行軍を撃破し、鎌倉を回復する。しかし、尊氏は鎌倉で恩賞の分配をするための袖判下文を勝手に発給した上、上洛命令を無視し、建武政権から離反した。また尊氏は義貞追討を要請したが、後醍醐天皇は逆に尊氏追討を義貞に命じ、建武の乱が発生した。
義貞軍は箱根・竹ノ下の戦
出典: 朝廷 (日本) (CC BY-SA)
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